1mmもNBAと関係のない2025年の話

仕事の話です。備忘録みたいなもんです。

介護ビジネスに関わる仕事を7年くらい続けてきて、今おもに介護事業に関わるコンサルタントとして仕事しながら、感じている違和感がひとつ。というか疑問。

介護って必要悪なんでしょうか。

介護が必要ないよう健康の維持増進に努めましょうとか、介護が必要になっても重度化しないようリハビリしましょうとか、それが今の介護業界のトレンド。介護保険制度の方向性。介護ができる限り不要な状況を作り出そうとしている。介護人材不足や財源不足解消の一手として。

そりゃ高齢者からしても、介護は金がかかるし人の世話になるし、できれば介護を受けず元気で自立していたいと思うだろう。

でも、それって本当なんですかね。それって介護は負担で迷惑なものって刷り込みが前提としてありませんかね。介護の必要性を減らそうという議論が「介護という世話が本来不要である」という方向に向いてませんかね。

考えてみて欲しい。

介護と相対するもうひとつの世話が子育てである。これを不要だと言う者はいない。子が健やかに育ち、学校に通い、そして世に出ていく。そのために子育ては必須だ。親も社会も子に時間や金をかけることを厭わない。子育ての目的は子孫繁栄だけじゃない。子を産み育てることで、小さな社会とも言うべき家庭が築ける。子を中心とした家庭は、家族の絆を産み、夫婦間の距離を縮めるだろう。親は子の生活を支えるため、仕事に励み、前向きに生きる原動力が得られるだろう。

じゃあ介護ってどうなの?介護もわりと同じようなものだと私は思う。介護を通じて家族の絆が深まる、あるいは遠かった距離が縮まるといった側面は必ずある。実体験としても、私の家庭はあまり明るい家庭ではなかったが祖母の介護をきっかけに初めて家族団らんの雰囲気ができた。良き家庭を築くためのエッセンスのひとつが子の世話であれば、老人の世話もまたしかり、ではないだろうか。なぜ介護は必要悪として扱われるのか。

世に言われる介護の問題の根本は、負担の重さとリスクの大きさである。これは子育て問題に通ずる。事情はそう変わらない。若い世帯の家計が貧しいとか、保育所になかなか子を預けられないとか、産休後の復帰が難しいとか。そこで子育てをめぐる議論は、助成を出そうとか保育所を増やそうとか法制度を整えようといった方向に向かうが、介護となると同じ方向性で話はしつつ、本音は「介護を不要なものにしよう」といったところにある。

妙な話ではないだろうか。子育てに関しては「世話が不要になるようにしよう」「自立時期を早めよう」「人の手がかからないよう養育マシンを開発・導入しよう」「外国人労働者に養育させよう」なんて話には基本的にならない。しかし、介護はメインの議論がそれだ。この歪みは何だろう。なぜ人生の最初期における世話は必要善であって、人生の最終期における世話は必要悪なのか。

私はどちらも必要善だと思う。世話をする者や、世話を必要とする者を抱えた周囲にとって、介護はポジティブな影響を与える、いわば善なる行為だと思う。今、介護のトレンドは介護を不要にする自立支援だと言ったが、もうひとつのトレンドは要介護者を社会で支えようというものだ。認知症であっても偏見を持たず、介護が必要であっても差別せず、地域社会の一員として支えていこうという構想がある。果たして可能だろうか。言っていることは「子供を地域皆で育てよう」というのと近い。それすら誰もが同意するわけではないのに、ましてや老人を地域で支えることに誰が共感するだろうか。

しかし、そうやっていかなければ事態は解決しない。というかますます深刻になっていく。なにせ若者は増えていく見込みがないのに、高齢者は今後ずっと増え続ていく。総人口の3人に1人が高齢者になるという2025年は、「2025年問題」として早い時期から将来のテーマとして語られてきたが、気がつけばあと7年である。

そろそろ介護そのものの価値観から見直すべき時期ではないか。